2021年10月10日(日) 祖父(じいじ)が97年の生涯に幕を下ろしました。
まだ整理がついていない部分もあるので、経験としてお伝えすべきポイントの記事を作成する前に、詳細な在宅での看取り記録を残しておきます。
文体的に語弊があるかもしれませんが、介護は基本的に私ではなく叔母と母が行いました。暗い話な上、乱文で恐縮です。
(多少名前の知れた人だったので、何か問題があれば削除することがあるかもしれません)
一つ言えることにはどんなに長寿でも、本人の希望通りでも、家族に囲まれていても、人が最期を迎えるのは寂しいということです。
在宅で祖父を看取った話
在宅看取りへの経緯
長期入院からの退院
10年以上前からほとんどの聴力を失っていた祖父。
昨春に消化器の不調で、姉の勤務する大学病院に2ヵ月強入院しました。
年齢もありかなり筋力が落ちた状態での退院となりましたが、お手洗いにはなんとか杖をついて自力で行けておりました。パッドの用意はありましたが使う気がなかったようです。
食事は流動的かつ低刺激なものしか許されませんでしたので、炭酸飲料・漬物好きな祖父には酷な生活だったかと思います。
入浴は1~2週間に一度ヘルパーさんにお願いし、髭剃りや歯磨きは自力で行います。
医師である祖父はその状態でも執筆活動を続けておりました。
7月半ば 転倒により頭部に外傷
ある朝、祖父、頭部より出血。
本人曰く、ちょっと転んだとのことです。
夜間にベッドとお手洗いの往復で転倒したようです。
このときはびっくりはしたものの訪問看護師さんの処置で終了いたしました。
8月5日 エアコンのリモコンで髭剃り
これまで大きな認知症の症状は特段見受けられなかった祖父。
ある日の朝、突然エアコンのリモコンで髭を剃ろうとしているところを母が発見。
それじゃ剃れないよと伝えるも、本人はいたって真面目。
これまでにない不安がよぎりました。
8月6日 再入院 硬膜下血腫発見
祖父、前日よりかなり身体が動きにくくなり介助なしでは移動ができなくなりました。
見た感じでは脳梗塞の後遺症のような症状です。
病院での検査の結果、硬膜下血腫が見つかり緊急手術となりました。
術後の経過は問題なかったのですが、直前に対応してくださったヘルパーさんの新型コロナウイルス感染がわかり、入院が長期化。
その後は誤嚥性肺炎を繰り返し、ようやく退院できたのが9月28日でした。
いよいよ在宅看取りへ
退院当日、祖父、帰宅後に発熱。誤嚥性肺炎です。
担当医の話では病院へとんぼ返りになる可能性もあるとのことでしたので、想定内のことではありました。
ですが今度入院すればあとはリハビリのない療養型施設へ送られることとなり、自宅への期間は難しいとの事。
家族間でも話し合い、祖父の希望である在宅で看ていくことになりました。
食欲があるのに食べられない
ついに寝たきりの祖父。
立ち上がることはおろか、ベッドに腰かけた状態を保つことも最早できません。
胃ろうも点滴も拒否し、「もうすぐ死ぬ」と言うのです。
死へ向かっていく人は徐々に睡眠時間が長くなり、求める食事や水分も少なくなっていき、最後に脱水状態で穏やかにこの世を去る…との話だったのですが、祖父には食欲が健在でした。
「サイダー買ってきて。すぐそこの自動販売機にあるから。」
「ごはんに卵をかけてもってきて。」
母にはダメだと言われるから、孫の私に伝えてきたのかもしれません。
肺炎が治るまでだめだよと伝えOS-1などで水分のみを取る生活が5日間続きました。
覚悟の座薬
5日が経過し、やっと食べられるかと思ったのも束の間。
祖父はプリンやゼリーを口にした後しばらくして、喀痰で苦しみ始めました。
訪問看護師さんをお呼びして、痰の吸引処置が施されます。
「うん、オッケー!」「上手ですよ~」と、明るく声をかけてくださる看護師さんの、なんと尊い事か…
それなのに状態は一向に改善せず、祖父の苦しい呼吸だけが続きます。
この間、夜間にも関わらずテイジンさんがすぐに酸素吸入器を持ってきてくださり、2ℓで稼働開始。
楽にしてほしいという祖父。看護師さんは家族へ向けて看取りのパンフレットをくださいました。
「苦しませないためには、座薬で眠っていただくという案もあります」
「体力の落ちた状態で強制的に眠っていただくと、もう目を覚まさないことも考えられます」
「ご家族のご意向次第で座薬をお入れします」
家族の意見はも苦しませたくないの一存でした。(私としても同意なのにやっぱり涙が出る)
「奥様お側で手を握ってあげてください」と看護師さん。
祖母が「がんばってね」と伝えるも、声自体は祖父には聞こえていなかったでしょう。
15分ほどで効くはずだという座薬がこれまた一向に効かず、45分ほど経過して二つ目の座薬を入れ、やっと祖父の呼吸が落ち着いてきました。
看取りパンフレットの内容とかけ離れた現実
翌朝、祖父は無事目を覚ますことができました。
痰も出ていないようです。声を出すことは難しいようでしたが、食欲が健在です。
ですがもう苦しむことがわかりきっている状態で、食べ物を入れてあげることができません。
筆談で記された「柿、ブドウ、白菜の漬物。」
何一つ叶えてあげることができませんでした。辛うじてしてあげられたことはOS1ゼリーやジュースで口を濡らすくらいです。
ちなみに看取りのパンフレットには以下の記載がありました。
「食べる・飲む」という行為にエネルギーを費やさないよう接種する量がだんだん減っていきます。
むせたり、せき込むこともあります。このような状態は「もういいよ」と身体が教えてくれていることです。
ご本人と身体が希望する無理のない範囲で差し上げてください。
我が家のケースではご本人と身体の希望が全く噛みあわず、歯がゆい思いが堪りませんでした。
訪問医の先生の話では、残る時間はあと1~2週間だろうとのことでした。
夜が来るのが怖い
幸運なことに親戚が多い我が家。
従姉妹たちも全員、祖父の存命中に顔を出してくれました。
日中は親族を始めヘルパーさんや訪問医の先生、看護師さんたちが代わる代わる祖父のもとにいてくれるので賑やかな状態でしたが、夜、家族のみの時間が来るととてつもなく不安です。
たくさんの助けがある状態で贅沢なことだとはわかっているのですが、いつ祖父の最期の時が来るかもわからない状態だと思うと、ずっと神経が高ぶっておりました。(あまちゃん)
入浴中が一番怖かったです。大震災直後 余震多発時の精神状態と似ていたように思います。
OS-1ゼリーも受け付けず
10月7日 OS-1ゼリーを摂った影響か、夜に再び肺炎状態に。
ゼロゼロの呼吸でまた苦しい時間が始まりました。
手伝いの方が痰を引こうとしてもうまく引けず、結局祖父を苦しめるだけの時間が流れました。
「もうこれ以上」と祖父が書いた文字は震えていました。
「もうやらない」と伝えると少し安堵したような表情です。
この日は酸素吸入量を2.5ℓに増やすと少し楽になったようでした。
その直後、千葉県で震度5の地震が発生。
とにかく電気供給だけは止まらないでと祈る気持ちでいっぱいでした。
近付きたくて近付けない時間
祖父が最期の時を迎えようとしているとき、なるべく長い時間側にいたいと思いました。
しかし祖父は側にいる人に食べたいもの、飲みたいものを持ってきてと言うのです。
どう答えてあげればいいのかわからず、悲しい顔をさせたいわけでもなく、もどかしい時間が続きました。
看護師である叔母の言うことには、最期は脱水状態である方が穏やかに逝けるとのことです。
私の願いはもう、ただ眠るように穏やかにその時を迎えてほしいということのみでした。
弱っていくにつれ眠る時間が多くなると聞いていたのに、祖父は最後の数日は起きている時間が長かったです。
殆ど出ていない声で「(食べられないことが)情けない」と言う祖父が可哀そうで、真正面から向き合えない気持ちもありました。
10月9日、筆談で行ってきますを伝えて祖父と手を振り合い仕事に外出。
夜帰宅すると、夕方祖父が急に苦しみ出したので酸素量を3ℓに上げたとのこと。
もうすでに視線が定まらず、朦朧とした祖父は何かを拒絶するように顔をしかめ、首を振ったり、声にならない叫びをあげているようでした。
素人の私も、祖父がもうこちらには帰ってこないことを悟りました。
もう苦しんでほしくなかったけど、これが定めだったのでしょうか。
看取りのパンフレットにはこのように記載がありました。
返答はできませんが家族の声や話は伝わります。
私の声も歌も15年聞き取れていない祖父には届かないかもしれないけど、「もう大丈夫だよ」と声を掛けました。
「ご臨終です」
10月10日6時半頃。
父の「じいじ、呼吸停止、心停止。」の声をどこか遠くから言われているような気分で聞きました。
そして最後の戦いを終えた祖父にお疲れさまと声をかけました。
まだ温かい祖父の開ききった顎を閉じるべく、医師である姉主導の試行錯誤が始まります。
スカーフもタオルもゆるんでしまうので、人力で押さえ続けることに。
普段使わない筋肉をここぞとばかりにフル稼働させたため、以降3日間、上半身の筋肉痛を発症いたしました。(あまちゃん)
7時頃、訪問の当番医の先生がご到着。
「今拝見させていただきましたのは、心拍、呼吸、瞳孔散大・対光反射です」
「いずれも、確認ができませんでした」
「ご臨終です」
初めて立ち会った死亡確認でした。
先生の穏やかな話し方に、なんだか不思議な安心感が生まれたのを覚えております。
大正・昭和・平成・令和を全力で働き抜いた人生でした。
臨終直後の不思議な時間
8時前に看護師さんが到着し、ほとんど骨と皮のみとなったその身体を家族と共に清めてくださいました。
お清めの間も「先生、一旦窓側を向きますよ」
「では先生、今度は私の方を向いてくださいね」と、もう動かない祖父にお声をかけてくださるのが大変ありがたく、温かく感じました。
祖父は、たしかに先生だったんです。
老いて食事を摂れなくなったのも耳が聞こえなくなったのも祖父の人生のたった一部です。
看護師さんの言葉には、忘れかけていた現役時代の祖父の威光を思い出しました。
看護師さんは最後に家族で選んだスーツを祖父に着せてくださいました。
ライトブルーのかっこいいネクタイ。
じいじ、立派だね。
納棺式が予想以上に尊い
臨終直後に看護師さんがスーツを着せて下さったので、納棺式での湯灌は行いませんでした。
痛々しい程にやせこけたその身体を見ずに済むことは、私にとっては救いでした。
遺体安置所へ出向くと、祖父が最後の日まで気にしていた髪の毛や髭が納棺師さんによってしっかり整えられ、マッサージで表情もほぐれておりました。
そんな祖父を見ていると、その死は何かの誤りや怠りが原因だったのではなく、正しい道を歩んだ上でしかるべき時に旅立ったのだという気持ちになりました。言葉にするのが難しいのですが。。
このことも、私にとっては大きな救いでした。
納棺師さんと共に親族で末期の水を含ませ、手や足、顔を蒸しタオルで清める時間は何とも言えず静かで穏やかで丁寧で、尊い時間に思えました。
ずっとこの時が続いて祖父と一緒にいられたら良いのにと。
当方、葬儀関連の仕事をしていたことがありますが納棺師さんの仕事の現場には立ち会ったことがありませんでした。
話には聞いていましたが、この水入らずの最後の時間が死別の哀しみを和らげるというのは本当にそうだと思います。
まとめ どんなに幸せな最期でも寂しい事には変わらない
我が家は医療従事者が多い家族で、近しい親族も同じ都内に住んでおりました。
祖父の介護を手伝ってくださった方が「お父さん、幸せね」「こんな家族は滅多にないよ」と声をかけてくださったのは、至極真っ当な意見だと承知しております。
しかし長生きをして自宅で家族に見守られて最期を迎えられたとしても、残された者が寂しくて何かしらの後悔を感じてしまうことは防ぎようがないんだと思いました。
無力な立場でできる限りのことをしたつもりですが、もっと何か資格や知識があれば役に立てたのでは、という自責と自問はいつまでも続きそうです。